今年の夏は例年以上に猛暑であった。連日、日中は30度を超え、暑さに倒れる人が続出した。そんな中を8月20日~27日まで、1週間のベトナムへの旅に出た。会員のみなさんへも“つばさ通信”241号で、ご一緒に行かれませんか?とお誘いしたので、覚えておられる方もあるでしょう。今回参加した人は全部で9人。そのうち会員はリーダーの平野時子さんはじめ、伊藤智恵子・勝正夫妻、私の4人でした。あとの方は初めてお会いする人もありました。真夏のべトナム1週間は、 今思い出しても満ち足りて、幸福感に包まれます。そしていつまでも余韻が残っているのです。
9月11日には帰国して初めての交流会が開かれました。全員出席でした。私もこれまであちこち海外のツアーに参加しています。その大方は海外の福祉や保育事情を視察したり、女性の社会的地位を見聞したりの研修旅行でした。でも今回ほど感動でいっぱいの充実した旅はありませんでした。何がそんなに魂を揺すぶられたのか、ずっと考えています。今でも。それはユンさんや参加者の方々のエッセイを読んでくだされば、よく解ります。私は少しペースを抑えて、短めにご報告します。
お花見から始まった出会い
去る4月2日、佐橋の実弟・守山区在住の伊藤勝正宅で、お花見がありました。その企画を持ち掛けたのが今回の旅のリーダー・平野時子さんでした。ベトナム人でベトナムと日本の架け橋をめざし、活躍しておられるグエン・トリ・ユンさんのお話と映像を、桜と一緒に観ませんか?というお誘いでした。日本とベトナムの友好と発展のために日本国から勲章までもらわれた方なんですって!…ふうーん、すごいね!どんな方なんだろう?…。ちょうど桜のきれいな頃で、そんな楽しい会ならぜひ、と夫と三男一家と5人で出かけました。それが今回の素晴らしいベトナム旅行のきっかけになるとは、全く夢にも思いませんでした。夫と私はいつも「人生の真は出会いなり」との言葉を座右の銘にしています。人生で何が一番大切なものなのか…それは財産でも地位でも名誉でもありません。
人と人との出会いの大切さと、その絆を深めていくことこそ、何ものにも増して大切な宝物なのですしかも自分たち家族の幸せだけでなく、周りの社会が平和で豊かなものでなければ、真の幸せとは言えないでしょう。これは結婚50年の人生を共に歩む中で、育てられてきた私たちの価値観です。それが今回の旅によって、こんなに深く実感できるとは、望外の喜びでした。
ユンさんの理想郷―ミントラン
ユンさんのことについては、ご本人と平野時子さんが述べておられますが、ユンさんがなぜ日本の大学に入学されたのか、直接お聴きしました。「それは子どものころから、アジアで一番経済発展と文化を持つ日本に憧れていた。それで1970年、国費留学生として来日し、一橋大学に。その間学生であったが、日本でベトナム戦争反対運動に加わっていた」という真の平和活動家でもあったのです。国連機関に17年勤めた後、株式会社NICDを起業され、電子部品組付けの受託生産を行い、100人もの若い女性たちが、お揃いのユニホームで、三交代制のフル稼働で生産に励んだ。しかも労働組合が今もあると聞いた。
このようにユンさんは優秀な経営者であると同時に、社会全体の平和・幸福を追求する社会事業家としての側面を実践されている稀有の人でもあるのです。
私たちにもミントランで、大型画面によるNHK制作の「映像の世紀―ベトナム戦争」を見せていただいた。このビデオはベトナムの教材として、ミントランを訪ねた人たちには観てもらうそうである。宮城大学の学生にも、経営セミナー、ビジネススクール、またベトナム人にも観てもらう。ベトナム戦争終結から40年も経ち、若い人はもう戦争を知らない世代になっているから、とのこと。
ミントランとは、ユンさんが作られた理想郷であり、それはまだ発展途上とお見受けした。今後、ミントランのような拠点がもっと拡がることを願ってやまない。
ホーチミン空港から近い都会の真ん中に、4000坪の生い茂った森が広がり、その中には11の建物があり、ベトナムの小数民族の民家やお寺などが移築され、失われていくベトナムの文化や生活を伝える建物、道具、民芸品などが訪ねた人に開放されている。ミントランの入り口には鉄の門がついていて、門番がボタンを押すとゆっくり開閉する。門を一歩出るとごちゃごちゃした通りで、朝早くから屋台で朝食をとる人も多い。
私たちが泊めていただいた宿泊棟はホテル並みのゆったりした施設であった。いつも一部屋に何人かで泊まることが多いのに、個室にはダブルベッドに天蓋さえ付いていた。さらにシングルベッドもあり、バス、トイレ付きで“1人で寂しい”と言いだす仲間もいるぐらい。さらにかつての精密機器の生産工場や事務所などもあり、目まぐるしい経済界で今後何をなすべきか、時代の先端を見据えてべトナムの経営者や財界人にも指導、進言をされている。お忙しい時間を割いて、戦争証跡博物館やベトナムの古都フエにもご一緒くださり、皇帝のお墓や寺院へもご案内頂いた。戦争証跡博物館は10数年前一度訪ねていたが、膨大な写真や拷問の道具、檻など見てフラフラになってしまった。アメリカ人の若い人たちが大勢来ていて、じっと写真や解説文に目を凝らしていた。どんな思いで彼らはその現実を見ているのだろうか。仲間のなかで語学に強いタケさんは、涙があふれてとても全部見ることができなかった、と目を真っ赤にされていた。
本物の「おもてなし」
ユンさんの多忙さは、掛かってくる電話の数を見ても明白である。およそ10分おきぐらいといっても良いぐらい。しかもユンさんが掛ける電話やスマホでの応答。その間に無数の写真を撮り、帰りまでに1枚のCDにしてお土産にいただいたほどスピーディである。
日本にいる奥さんの柴田智世さんにも、1日に10本以上の電話や映像を送り、情報を共有されている。68歳にしてこのパワフルさに圧倒される。
ミントラン近くのドンコイ通りやベンタイン市場にショッピングに行くときも、職員の男性ドライバー・チュンさんが目的地までマイクロバスで送迎。同乗した日本語のわかる女性・フンさんがショッピングにまで付き合ってくださる。おかげで沢山のお土産を買うことができた。彼女はメンバーの中でも最年長の私の足元が不確かなのを見つけ、バスの乗り降りもやさしく手を取ってもらった。これは仲間のみなさんも同様で、おかげで私は荷物を持つこともなく、こんなに優しくされた経験がなかったので、嬉しいやら戸惑いやら…初めて歳を実感した。おかげでみなさんに助けられ、何とか行動を共にできた。
“ひょっとして海外旅行はこれが最後かな?”との思いもいつの間にか雲散霧消。それどころか“今回行けなかったハノイにも行きたいな”などと早くも厚かましく思っている次第です。
でも、その時もやはりミントランを拠点に訪ねたい。ミントランには豊かな自然と心を癒す花々、小鳥のさえずり、心地よい風に吹かれゆったりいただく朝食のおいしかったこと!スタッフの皆さんのおもてなしのすばらしさ。グルメのユンさんが様々な選りすぐりのレストランに連れて行ってくださったけれど、それに負けないぐらいミントランでの食事はおいしかった。きっと2キロは太りますよ!と警告されていたけど、体重はキープ。無農薬で新鮮な野菜が多かったからでしょう。もっとも血糖値は上がってしまい、今コントロール中です。
真のフェミニスト
ユンさんは仕事柄、会社を何日も空けられることも多い。日本の奥さんや娘さんたちの所へも帰られる。その間、会社を守るのは副社長のチャオさんである。ベトナムへ発つ前の8月12日。宮城大学の学生にベトナム語を教えたり、会社の説明に副社長が来日されると言うので、私たちは名古屋市内のお蕎麦屋さんに出向いた。多分年配のおじさんが現われるだろうと思い込んでいた。ところがそこに姿を現したのは、小柄で丸顔、色白でチャーミングな女性で、みんなびっくり!日本語も上手で聡明な人であった。社長の仕事を見事にこなし、社長の片腕として重責を果たされている。ベトナムでユンさんに訊ねた。
「あんな素敵な人をどこで見つけて来られたのですか?」「いえ、育てたのです」6年半にわたる日本の3つの大学への留学、それをユンさんの支援や奨学金によって見事に卒業された。本人の努力もあって、今ではユンさんの留守中でも見事に役割を果たされるまでになった。
これまで長年女性の自立や平等、能力の開花を後押することをライフワークとして活動してきた私にとって、ユンさんの真のフェミニストぶりに痛く心を奪われた。こんな男性や企業がもっと現れてくれれば、女性もさらにと輝けるのに!
それだけではない。日本で娘が保育園に通うようになれば、働く母親達のためにベトナムにも保育園を作り、小学校、中学校、高校設立まで助言し、時には設計まで手掛けられたという。今度はミントラン大学の設立を期待します。
教育こそ国の未来を創っていくものであり、その必要性が急がれるのではないか。教育の成果が現われるのには時間がかかり、財政負担も莫大である。それこそ国家レベルでの資金援助が必要であり、市民の要請、世論の高まりが不可欠に思われる。
今後の夢
私もこの偉大なユンさんのことをまだ部分的にしか知らない。そんなこともあって、旅が終わって初めて再会したとき、みんなの総意で、今後不定期ではあるが「ミントラン研究会」を発足することになった。このままお付き合いが途切れることはもったいない!こんなに素晴らしい人たちのことを、もっとお互いを知りあいたい、との思いが、みんなの胸に去来していたから。
ユンさんが日本とベトナムの友好・発展・平和のため尽力されてきたことを理解し、ご一緒できた素晴らしい仲間たちとの友情を深め、自分たちに何ができるかを考え、実現をはかる。今回の旅はまさに、自分探しの旅になったといえよう。みなさんの中にもこの研究会にお入りになりたい方は、ぜひどうぞおいでください! 旅のだいご味は、何といっても何日間を寝食共にすることで、素晴らしい友人を得ることができることです。それはみんなが心を開いてくださるから可能になるのです。今回の旅ほど心許せる友人を持てたことはありません。加齢とともに年々友人を失っていく現状の中で、新たな友を得ることができ、目の前が光り輝いています。心も体も癒され、元気になれた素晴らしい旅でした。
「 私 と 日 本 」
NICD(株)代表 グエン・トリ・ユン
現在の日本で代表を務めるNICD(株)はNETWORK OF INTERNATIONAL COOPERATION FOR DEVELOPMENT の略です。国連地域開発センターでの経験を活かして、ベトナムを発展させることと、自分のライフワークである国際市民交流を実現させるために、平成4年、名古屋で設立しました。現在の主な業務は、ベトナムでの半導体関連機器の受託製造、コンサルティング、日越大学間学生交流、地方自治体、民間企業間の日越交流です
日本の本当の強さ
国連勤務時代は、アジア・アフリカなど途上国の政府から派遣される人材に、日本の開発モデルを教える仕事で、17年間携わりました。途上国からの研修生に教えるプログラムは、先進国の大企業、大都市の現状よりも地方の開発モデルのほうが参考になると考え、日本全国の地方自治体や農村、小中学校や中小の製造業の施設見学などをプログラムに取り入れ、交流会も積極的に行いました。そのプログラムは研修生には大変評判がよく、途上国の将来を担う人々に日本人の考え方ややり方を伝えるのに大いに役立ちました。広島の原爆記念館訪問も必ずプログラムに入れました。その研修を実施する中で私は、日本の強みは大企業や大都市ではなく、地方都市や中小零細企業の資質のレベルの高さにあると理解しました。
その頃、ソ連崩壊、東西ドイツ統合などを追い風に、ベトナムでもドイモイ(経済改革)がはじまり、ベトナムに海外資本投資が入りやすい環境になっていました。そのため国連を辞め、日本の進出企業の現地パートナーとして、ベトナムで会社を作りました。ベトナム初の民間会社でした。その後も、海外からの進出企業に対応できる人材育成をと、ベトナム初の民間ビジネススクールも作りました。
日本で自分の子どもを保育園に預けた経験から、ベトナム初の保育園もつくりました。
ミントランの誕生
20年ほど前には、当初は何もない沼地だった地に、新たにミントランという会社を設立しました。ミントランとは、ベトナム語で「真珠」。長女の名前です。土地面積は約4000坪で、半分は工場を建てて使用し、残り半分は地域の人たちにサッカー場として開放していました。そのうちに工場では、半導体の検査機器という精密機器生産を24時間体制で操業することになり、外部の人が自由に出入りすることが不都合になってきたため、高い塀と門を作りました。ミントランの従業員たちは皆、会社勤めの経験がない人たちばかりだったので、精密な作業の疲れを癒してもらうために木を植え始めました。ハイテクとローテクをセットにするということは、私が好きな考え方です。
その頃のベトナムでは、外資によって新しい建築物や高層ビルが建ち始め、自国の文化や伝統的な建築は古臭く時代遅れと思われる風潮になっており、私は文化的な危機感を感じていました。日本での経験から、社会が発展すればするほど、文化的独自性のあるものは価値を増すことを知っていたからです。失ってから取り戻すことの難しさも、よくわかっていました。そこで、空いている半分の土地に、当時どんどん壊され始めていた北部や中部の伝統的な建築物や少数民族の家を建て始めました。材料は、すべて現地調達でそのまま移築したため、運搬途中で木材が壊れたり失くなったりしてとても大変でしたが、機械重機を使わずに伝統の工法で再現する建て方は、それを見た工場の若い労働者たちを感嘆させ、自国の文化を見直すきっかけになったと言っていました。実際、修学旅行などなかったベトナムの若者たちは、自分の目でベトナムの伝統建築や少数民族の文化財などに触れる機会はほとんどなかったのです。庭に植えた木々は、日本の5倍の速さで成長し、庭は17年で森のようになりました。
当時私は、日本での講演でベトナムの特徴についての質問があると、「現在のベトナムは、19世紀、20世紀、21世紀と3つの世紀が同時に存在する国なのです」と言いました。地方では、牛を引く農業や電気に不自由する暮らしがあり、町ではスーパーやバイクが増えてきて、都市部の若者たちは、英語が苦手の日本人よりよほどインターネットや通信機器に精通しています。
親日の仲間を増やしたい
また、日本にいるときの私は、ベトナムから赴任してくる駐在大使や来日する大学教授や研究者などで、これはと思う人には、自費で日本の各地に連れて行き、国連仕込みの「本当の日本」を体感してもらいました。すると彼らは皆「日本信者」と自称するほど日本のファンになり、帰国してから周りの人たちに布教してくれました。
ベトナムのユネスコ担当者が来日した時も京都に同行し、歴史遺産をいかにして観光資源とするか京都から学ぶように、またユネスコの国際会議では中国・韓国が反発しても、絶対日本の味方になるべきと進言していました。それはもちろん日本びいきであるという理由だけでなく、その方がベトナムにとっても益になると考えていたからです。
日本の知事や議員団がベトナムを訪問したいという時も、将来に有益な関係が築けるよう、次に実権を握ってほしい人に積極的に会合の場を作っていました。
私は、日本の歴史にそれ程詳しいわけではありません。ただ、なぜ日本だけがアジアの中で先んじて発展できたかを研究するうちに、日本人の気質や感性は、世界でも特殊な日本の自然環境によってはぐくまれてきたことを理解しました。豊かな四季と厳しすぎる自然が、繊細でまじめで謙虚な日本人を作ったということです。私の好きな日本とは、「丁寧で思いやりのある日本、やるべきことは最後まで責任を持ってやり遂げる日本」です。
市民の善意がベトナムヘ
そして、市井の人々の善意が大きな力になることを証明したのは「ベトナムへミシンを送る運動」した。それは、高橋ますみさんという50代の女性と、たまたまNHKの討論会で出会ったのがきっかけでした。私からベトナム戦争後のベトナム女性の窮地を聞いたますみさんが、ミシンを5.6台なら集められるかもと軽く会話を交わしたことから始まりました。高橋さんは、「日本は、アメリカに負けたことによって戦勝国から援助を受けたが、ベトナムは、アメリカに勝ったがゆえに何も得られず、破壊されつくして荒廃した国土と、同じ民族同士で戦い疲弊した人々が残されました。沖縄の米軍基地からベトナムへ多くの爆撃機が飛び立ち、日本でも大規模な反戦運動が起こりましたが、その後の好景気で、戦後のベトナムのことを日本人はみんな忘れてしまいました。自分たちの戦後を思い返せば、ベトナムの婦人たちの戦後の苦労がどれほどのものか解る。縁があって困難を知ったからには、何もせずにはいられなかったのです。」とおっしゃいました。
NHKの討論会の司会をしていた宮川俊二さんが、ミシンを送る活動を一般の主婦が始めたということを取材してくれたことで火が付き、それを知ったブラザー工業の松浦さんという技術者が、壊れているミシンを会社を挙げて修理してくださったことも話題になり、結局ミシンは日本中から1000台集まり、そのうち修理できた800台が海を渡りました。私の母が、ホーチミン市の区で婦人会長をしていたこともあり、ミシンは20台くらいずつ全国各地の婦人会に送られ、ミシン教室が開かれました。おそらくは、数千人の女性たちが縫製技術を学び、自宅で洋裁店をしたり縫製工場へ就職できたことになります。私たちが地方のミシン教室を訪問したとき、女性たちが一部のミシンの布を送る押さえ金具をはずして、ミシンで刺繍をしていたのを見て、発想の柔軟さと器用さに驚きました。当時の写真に、メコンデルタの農村で小さな小舟に自分たちが作った刺繍やブラウスをたくさん乗せて売りに行く女の子たちがあります。私は、ミシンを送りっぱなしにせず、帰国するたびに婦人会を見て回り、活動していないミシンは取り戻してやる気のある所に回していきました。
NHKの宮川さんもミシンのその後を取材してくださり、高橋さんも「ベトナム友好市民の会」を作って、運動に参加した人たちと現地を訪問しました。その頃のベトナムは、本当にどこにいっても笑顔の女性たちに迎えられました。当時ブンタオの婦人会長であったリュー・チ・レイさんは、ベトナム戦争当時は勇敢な女戦士でしたが、婦人会の縫製工場を成功させ、のちに女性のための銀行を設立するまでになりました。
ホテルチヨダの平野清高さんが、100台の車椅子やパソコンをベトナムに寄付してくださったのもその頃でした。車椅子は当時本当に貴重品で、数台ずつ全国の病院に届けられました。
その後ベトナムはアメリカと国交正常化をはたし、海外から第一次の投資ブームとなり、大規模な縫製工場や病院も次々とできましたが、ベトナムが最も困難な時代に、日本の一般の人々の善意が確かにベトナムの手に届いたのでした。
日本でもベトナムでも、女性の生きる力、家族と暮らしを守ろうとする力は、本当に国を変えるほどの強さをもつものだと私は教えられました。
これからの日本とベトナム
ただし、近年の私は、以前より日本に対してもベトナムに対しても厳しい見方をしています。日越の関係は、政治経済では密接であるのに、民間の相互理解は進んでいない、成果も上がっていないと思っています。ベトナムは日本をODAのスポンサーのように考え、日本側もベトナムを市
や日米の協力者とみるだけで、日本の開発は投資を回収することが優先であり、同じ価値観で未来を切り開く真のパートナーシップを結ぶ覚悟ができていないと感じているからです。
私は、「日本は、ベトナムのことをチャイナプラスワンという表現をするが、私からすればジャパンプラスワンがベトナムであると考えてほしい。中国ではなく、日本が真のリーダーシップを持って、アジアを牽引し、誇りと責任を自覚してほしい。」と言います。日本の若者がおとなしすぎ、日本社会全体が閉塞感に満ちていることも気がかりです。その点、ベトナムの若者は元気でやる気に溢れています。楽観的で、新しいもの、珍しいことが大好きで、起業家精神も持っています。国民の平均年齢は28歳なので、人口ボーナスのメリットもこれからです。日本とベトナム、合わせて2億を超える経済規模は、EUの次くらいです。技術と経験のある日本と若い人材と資源豊富なベトナム。両国のきずなが深まることで生まれるメリットは計り知れず、世界の模範になる可能性すらあります。
先日のオバマ大統領のベトナム・日本への訪問によって、かつてアメリカと最も激しく戦い、最も大きな被害を受けた日本とベトナムが、今はアメリカが最も信頼する両国となったことを国際社会に示しました。
日本とベトナムは、戦争の悲劇をのり越え、未来の子どもたちのために過去にとらわれすぎないことに成功したのです。私は、日本人の妻と結婚し子どもを持ったことで、日越両国に対して大きな責任を負っていると感じます。そして、現在は一国だけの平和はありえない。真の国際平和とは、国家を超えた市民間の相互理解と友情によってのみ可能であり、未来の希望であるすべての子どもたちが、互いを尊重しあい協力し合うよう、大人はあらゆる機会を提供し努力をする責任がると思います。
ミントランを市民平和村に
現在のミントランには、遊びを通して健康に遊べる施設があります。日本をはじめ世界中の伝統的な遊び道具を揃えた室内遊戯場のほか、屋外のアスレチックで工夫して遊ぶことを推奨しています。ベトナムと駐在日本人の子どもたちが一緒に遊んで交流することは、将来必ず心に残り、良き国際人の形成に役立つでしょう。
またここでは、子どもだけでなく大人も遊んでほしいのです。笑うことや体を使うことで、かつて子どもだったことを思い出して頂きたいのです。ミントランガーデンは、皆さんでぜひそのような拠点にしていただきたいです
平野 時子 (名古屋市)
世界でたった1つアメリカに勝った国!!
それは「ベトナム」。
体も小さく、武器も無い。
なぜ、負けなかったのだろう?
「希望を捨てなければ、必ず勝つ!」
そう国民が思っていたから負けなかった。
教えてくれたのは、革命の指導者ホーチミン
ことホーおじさん。
今回の旅行の中で、私たちにとっては
人生の革命家グェン・トリ・ユンさんこと
ユンおじさんが、「市民運動こそが平和を創る」と、教えてくれました。
ユンさんは2015年12月に日本国より旭日小綬章を頂かれました。それはユンさんの日本とベトナムの交流支援に惜しみない働きを尽くされた功労への褒賞でした。
ユンさんは18歳の時から日本で学び(ベトナム戦争終結10年前)、一ツ橋大学・筑波大学院を卒業され、経済学の専門家として国連名古屋地域センターで務められました。
在任中に名古屋の女性活動家 高橋ますみさんらと力を合わせ、ブラザー工業のメンテナンスなどの支援を得て各家庭で眠る1000台の中古ミシンを名古屋からベトナムに送り、ベトナムの女性の地位向上に大変な功績をあげられました。
その後も100台の車いすを名古屋の市民から寄贈していただき、ベトナムの各病院へ届けたり、社会主義国初の民間ビジネススクールを開設されたりと、ベトナムの平和復興のために心から尽くされました。そして、今も尚、ベトナムと日本の未来の為に教育、経済、福祉の研究交流をされています。
本日9月11日、ミントランガーデンの訪問者11名が集まり、お疲れ様会を円頓寺のおいしい日仏食堂enさんで開きました。
小さなお店にほかほかの笑顔と親しみが たっぷりと満ち満ちた楽しい会となりました。感想をまとめると
1. ミントランはおもてなしの心がいっぱいだった。
25年前に沼地だったとは考えられない緑あふれる庭とベトナム各地から移築した11戸の民族の古民家と、子どもたちの為に作られた、木々を活用したアスレチックには感動した。
毎朝、古民家の二階のテラスで、小鳥のさえずりを聞き、緑渡る風を浴びながら、パリパリのフランスパンとフォーとベトナムコーヒーをいただいた心地良さは、メンバー全員忘れることの出来ない思い出。リスを見つけて、庭へ駈け出すこともあった。
(1) 騒然なるバイクの波が隣にあるとは思えないみずみずしい森のような2千坪の庭。(全体では4千坪、半分は会社棟)
(2) ユンさんの意志を理解した気配りがあり、優しく微笑んでくれるたくさんの社員さん。
(3) 無農薬・無添加にこだわった野菜たっぷりのお食事と、時間をかけたスープ。美味しいアイスクリーム。
2. ベトナムの平均年齢28歳から感じるベトナムの国の明るさ・バイタリティ。親子4人乗りのバイクが幸せそうに思える。 戦後からの出発の たくましさを感じた。
3. 日本人的なおもてなしは本物だろうかと考えさせられた。お辞儀の角度や均一なサービスは、こころを無くした形になってしまっているのではないだろうか?
深夜便での帰国時、悪天候により出発が遅れ、どの客もへとへとになっていた時、ベトナム航空の母子に対するスピーディな対応は、素晴らしかった。一切を閉鎖して、優先的に母子を誘導していた。
平等、公平を重んじるあまり、文句が出たらどうしようと考える日本人より、よほどおもてなしの心を体現していると感じた。
4. ミントランガーデンに、自分の目標としてきたやりたかった事がそこにあった。
5. ユンさんのような国を思う気持ちが、私たちにあるだろうか。と考えさせられた。これからの日本、これからの世界を考え るべきと思えた。
6. この旅を通して、私たちは心あるとても魅力的なともだちを得ることが出来た。
以上を語りながら、この繋がりを絶やすことなく、ソーラーパネルの様にエネルギーを1人ひとりが受け取り交流し、より良い社会・世界の実現に役立てて行きたいと思いました。そこで、「ミントラン研究会」を発足し、数か月に1度ずつおいしいお食事と刺激あるお話をしていく事になりました。ユンさんが日本へ帰宅する折には、毎回ミーティングしたいと考えています。ご興味のある方はご参加して下さい。 最後に、みなさまに、大手旅行会社の旅ではなく、ユンさんと行くベトナム 自分再発見の旅を是非、お勧めしたいと思います。
ベトナム人の気配りとやさしさ
竹内 功(千葉県我孫市)
初めてのベトナムへの旅。ミントランの代表者であるユンさんという素晴らしい方のアレンジのもと、そしてご一緒させて頂いたこれまた素晴らしいメンバーの方々のおかげで、夢のような一週間の旅を経験した。心を癒してくれたミントランガーデンでの生活、毎日毎食、頂く美味しいベトナム料理、街で見かけるアオサイの素敵な女性、ベトナム人の生活感を覗かせてくれるストリートカフェ、涙なしではいられない戦争証跡博物館等々。今思い出しても、その場面の一こま一こまが私の頭のスクリーンに写しだされてくる。
今回ご一緒させて頂いた佐橋先生から、ベトナム旅行でもっとも強く感じたことを、文にして送ってほしいというご依頼を頂いた。もっとも強く感じたこと?何だろう?と、私の頭のスクリーンを、今一度巻き起こしスイッチオンしてみた。不思議なことに、旅の最初と最後の場面が写し出されてきた
1. バイクの群れ
ベトナムについてすぐに驚かされるのは、交通渋滞であろう。南北に細長い国、まだ鉄道、地下鉄などが未整備であるがゆえに、物資の輸送、通勤、通学の手段は、車とバイクに頼らざるを得ない。その交通渋滞は想像を絶するもの。しかも、バイクに乗っているのは一人だけじゃない。小さな子どもをカンガルーのように前にのせ、後ろにその子どものおにいちゃんやおねえちゃんを背負い、荷台には溢れんばかりの荷物を積み上げ、大渋滞の中を少しでも隙間を見つけて潜り抜けていく大人たち。我々一行はマイクロバスでの移動が中心だったが、その光景を車窓から見ていると、「あ!ぶつかる!え、ここを割り込んでくるの?あ!あぶない!あ、びっくり!」という声の連発。
それでも事故は少ないそうだ。(実際はあるようだが)あれだけの大渋滞で、“我先に!”とも見える運転では、もっといたるところで事故現場があってもよさそうだが、そのようなものはあまり見かけなかった。彼らの運転技術をよーく見ていると、“我先に!”ではあるが、“寸止め数センチ”のところで、譲りあいの心のブレーキが働いているように思われた。もちろん、自分から事故をおかしたくないという気持ちもあるだろうが、わずか数センチの前で“afteryou!お先にどうぞ。後でいいよ”という心のブレーキがかけられる国民性なんだなぁと感じた。
2. 旅の終わりの空港での光景
あっという間の楽しいベトナム旅行の帰国手続き。最終日8月26日はあいにくの大雨模様。周辺の国々、地域にも、相当大雨が降ったらしく、各国々、地域からホーチミンに入ってくる飛行機が軒並みに遅れた模様。ゆえにホーチミンから折り返し出発する各社の飛行機が大雨がおさまってからの出発となり、空港は、人、人、人で大混雑だった。チケットチェックイン、バッゲッジチェックインに長蛇の列、次に、手荷物検査にこれまた長蛇の列、最後の出国検査のブースにも長蛇の列。
われわれ大人でさえ、足腰が疲れてくるのに、ここでも小さなお子様を連れたお母さま方は大変。前に、カンガルーのように赤ちゃんを抱き、後ろに、もう少しおおきい子どもを背負い、右手に大きな荷物、左手には5歳ぐらいの幼児の手をしっかり持って並んでいる。私の孫も5歳のおてんば娘だからよくわかるが、じっとしているはずがない!叱りつけるお母さん、じっとしていない幼児、ぐずりはじめる背中の赤ちゃん。そんな光景のなか、ベトナムの空港職員は、すばらしい。
そのような 親子を見つけると、特別窓口?ブース?に誘導させ、すんなりと優先的にその親子を通らせた。その光景をみていた私は、その空港職員(綺麗な女性)に、“心で拍手喝采!やるじゃん?ベトナムの人ってやさしい!”と、感じた。
同じような光景がもう1つ。やっと、私の出国検査手続きまで、後3人というところまできた。“あ、私は、あの女性に、チェックを受けるんだなあ。わ!なんか、銀ぶちのメガネできつそうだな”と思っていたら、その検査官、突然ブースをクローズして、並んでいる我々の所にやってきた。“おいおい、ここまで来てトイレ? はないだろう?”と、思ったところ、その検査官は、私より後ろに並んでいた先程と同じような小さなお子様連れの親子を見つけて、すいている出国検査ブースに誘導していた。ここでも、拍手喝采!検査官は、目の前の人の出国検査だけでなく、空港全体、出国検査待ち列全体を見回し、困っている人達に気配りができるやさしい人なんだなぁと感じた。
3. 竹内所感
佐橋先生に言われて、もっとも印象に残ったことと、言われると、何故か、この二つの光景が浮かんできた。何故なのか私にはわからない。おそらく、普段の当たり前の生活を送っている私の中で、ルールさえ守っていればいい、という自分がいたような気がする。この世の中、ルール通りにいくわけがない。ルールのさらに上にあるもの、気配りや優しさが、ルールよりも大切なんだということを教えられたことではなかろうか。いや、この世の中、ルールはつねに変わっていると思わなければならないかもしれない。つねに、今、目の前に起きている事象に早く気づき、そのために何が自分として対応できるか、何を身につけなければ、いけないかを考えなければいけないことを、教えられたような気がした。
これからのベトナム。大きな動きは、私にはわからないが、農業から工業化。工業から情報化。人びとの暮らしがよくなり、商業、小売り、消費国になっていくんだろうと思う。そして、いずれ高齢化社会を迎えるのだろうとも思う。でも、いずれの時代でも、ベトナムの人たちのやさしさと笑顔は、不変であってほしいと願う。もちろん、我々日本人も。
ベトナム!また、訪れたいと思う。願わくは、あのフエの王宮殿で出会った、“純白のアオザイの似合う女性”に出会いたい。(これが、私のもっとも強く印象に残った本音かもしれない)